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著:ケン・ハヤシ(Ken Hayashi)
それはカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に通っていた時のことでした。ルームメートがいたのですが、その方の実家の近所に、たまたまKeiro創設者の1人である広戸エドウィン氏が住んでいたのです。多くの大学生のように、私たち学生はいつもお腹を減らしていたので、彼の実家にしょっちゅう行って、彼のご両親にご馳走になっていました。こうして私はエドウィンととても親しくなりました。
大学卒業後、私は陸軍に入隊し、ベトナムの基地に配属されました。エドウィンは時々手紙を送ってくれました。そしてこの「Keiroプロジェクト」について語ってくれたのです。でも当時は「Keiro」が何なのか、さっぱり分かりませんでした。けれども1968年に帰国した後、管理者の助手として自分の所で働かないか、と彼から誘われました。最終的に、敬老介護ホームと、シティ・ビュー病院という通称で活動しているメモリアル・ホスピタル・オブ・ザ・ジャパニーズ・コミュニティ(この2つは非営利の姉妹組織でした)の両方で会計・管理部門で合計11年間働きました。
初期のビジョンと成果
Keiroの草創期は病院の運営から始まりました。けれどもその後高齢者介護施設に進出して、サービスを拡大しました。1969年にリンカーン・パークの資産を購入して99床の敬老介護ホームを建設しました。その時代、そうした高齢者介護施設や、長期ケア、居住ケアに未来があるということが分かり始めていました。自分たちはその方向に向かっていて、それを目指すべきだ、ということも分かり始めていました。
私たちが敬老介護ホームのために設定した目標の1つに、当時は評判が悪かった高齢者介護施設業界に対する見方を変えることがありました。その頃は、誰かが介護施設に入ったと聞けば必ず周りから親の面倒を見てもらいたいのなら職員に現金を手渡さないと、と言われているような時代でした。私たちはそのようなスタンダードを自分たちの施設で変えよう、と決意しました――そしてそれを当時、実行できたと思っています。私たちは時代のはるか先を行っていました。とても先進的だったので、保健局が研修の場所としてKeiroを利用したくらいです。保健局は新人の調査官をKeiroに派遣して、「これが理想の施設ですよ」と言っていました。私たちは皆、それをとても誇らしく思っていました。用務員やメンテナンス担当者から経営陣に至るまで、全員がKeiroの精神を肝に銘じていました。私たちが作り上げたものは業界を変えただけでなく、私たちのコミュニティの高齢者へケアを提供することができました。
デジタル時代の黎明期から絶頂期まで
1968年に私がKeiroで働き始めた時期は、デジタル時代の夜明けのような時期でした。例えばシティ・ビュー病院では、従業員の給料の管理はサービス機関に委託していました。なぜなら、当時はコンピューターを買える人などごくわずかしかいなかったからです。介護施設の予算が限られていたため、私はKeiroの給与計算を手作業でやり始めました。その後少しして、ようやく全ての施設に自前のIBMのコンピューターを導入することができました。基盤にプラグを差し込んで有線で接続してプログラミングをする、第一世代のシステムでした。私の学習意欲は特に旺盛でした。それと言うのも、早く勉強すればするほど、手作業をしなくてはならない時間が減っていったからです。今ではあらゆる事柄がオンラインになりました。これは当然の進化です。起こるべくして起こった進化であり、その進化を目の当たりにできているのは喜ばしいことです。
しかしこのような技術の発展とともにシティ・ビュー病院の閉鎖もやってきました。Keiroにとって避けられない変化でした。技術がどんどん進むにつれて、高価な設備が当時一般に使われるようになっていったのですが、50床の小さな病院には、それを購入することができなかったのです。病床の稼働率が低下したことと、技術的・財政的な負担が相まって、シティ・ビュー病院は1985年に閉鎖に至りました。
創設者の閃き
Keiroを退職した後は基本的にボランティアとして活動しました。エドウィンがいた頃は、彼の希望に応じてあらゆる仕事を行ったものです。エドウィンは最も親しい友人の1人だったとともに、お手本になるような人でした。エドウィン・広戸のような人をメンターにできた私は、本当にとても幸運でした。ビジネススクールへ進むと、プロフェッショナルの世界に関する話を時々耳にするようになりました。そして次第に疑問を感じるようになりました。「良い人になりなさい、正直でありなさい、と母親から言われてきたけれど、そうした事柄は社会人になっても果たして大切なのか?」と思うようになったのです。でもエドウィンのような人がそばにいたことで、「やっぱりそれらの事柄は大切なのだ」という事実を確認することができました。そういう事は仕事の上でも大切ですし、私生活でも大摂受心院様のです。
何かの催しに参加したことがありました。エドウィンは、Keiroを成功させるために様々な人々が行ってきた事柄をいつも褒めて、感謝していました。私はこっそりエドウィンにこう言いました。「君は一切自分の手柄にしないんだね?」すると彼はこう答えたものです。「ケン、これは私たちの仕事だよ。私が彼らに感謝する理由は、それが義務じゃないのにやってくれるからなんだよ。」と。年齢を重ねるにつれて、彼が言っていたことの意味が良く分かるようになりました。Keiroで働いた経験こそが、私の仕事と私生活全体の基礎になりました。
退役軍人への支援
この草創期以外はKeiroで働きませんでしたが、いくつか関わることができたことがありました。その1つが、Keiroの「元気退役軍人カンファレンス」です。日系アメリカ人の退役軍人を大勢集めて退役軍人省を招き、関係を築くことができました。
このように退役軍人省(VA)と連携したことで、給付金の申請や、PTSDに関するより深い知識を得る事、引いては私たちのコミュニティにいる退役軍人の配偶者の支援に至るまで、実に甚大な効果がありました。これは大きな助けになり、それに関かわれたことに対して今日も、そして障害ずっと感謝をし続けるでしょう。
変化する状況と一貫したケア
Keiroは様々な変化を経験してきましたが、日系アメリカ人コミュニティの中で高齢化しつつある人々の福祉のために献身しているという点は、何も変わっていないと思います。もちろん私が1968年に働き始めた時よりも、進化しています。Keiroは、これまでの間に退役軍人省との協力や介護者向けのプログラムなど行ってきました。私は以前義理の父親と同居していたので、そういったプログラムが当時とても役に立ちました。Keiroの辿った進化はよかったと思っています。それは、Keiroがコミュニティにとって必要な存在であり続けるためには必然だったといえるでしょう。